2015-07-02

原泰久 / キングダム 1〜37巻

ニート生活もだんだん充実してきつつも、ちょこちょこ仕事を請け負っている。その取引先の人に勧められ、読まないがために取引を止められると辛いので、キングダムを読んだ。低い身分の少年の、戦士としての出世物語だ。

春秋戦国時代の末期がベースになっている。何百年もの平衡状態が崩れて、秦が中華を治めるタイミングなので、大きな変化があった時期なんだろう。ストーリーとして、そもそも面白くなる時期なのだと思う。

七国が入り乱れているので、登場人物が多い。主要人物だけでも描き書き分けが難しくなりそうだが、大きな脚色を加えてある。秦の武将だけでも結構な人数なので、王騎はオカマっぽいキャラになっているし、羌瘣や楊端和は女性という設定になってる。そして記録があんまり残っていない李信を、分かりやすい主人公的なキャラクターに仕上げている。キン肉マンや桜木花道のように、考えたことがそのまま発言と行動になるような。

信を主人公として見たキングダムは、大塚英志の「物語の体操」に書いてある(と思うんだけど)、英雄物語の王道ストーリーになっている。英雄が何らかのハンデを背負ってスタートし、ハンデを克服したり、新たなアイテムや仲間を得て、大きな目的を達成していく話だ。

もともと始皇帝が英雄伝説テンプレートに則ってるけど、キングダムは周辺の人物を軸として、英雄物語になっている。他の登場人物もフラクタルのように英雄伝説を生きていて、たとえば王賁はエリートだけど、父にあんまり直接可愛がられてない、とかだ。

史記(の一部)とキングダムの関係は、三国志と三国志演義の関係みたいな感じだろうか。読んだこと無いけど。史実に創作をかぶせている。宇野常寛の「リトル・ピープルの時代」でいうところの、いまどきの創作っぽい。現実に創作をかぶせているとか、主要人物が読者に近いところにいるように見えるところとか。

諸葛亮孔明や劉備玄徳だと、大ボス感がありすぎてビッグブラザー的になってしまう。始皇帝だって大ボスなんだけど、下僕の立場である信と漂から物語がスタート → 漂と瓜ふたつの政(始皇帝)という設定にすることで、一気に近づけてしまっている。信がタメ口をきくから余計に近くなる。リトル・ピープル的というのは、そういう意味で。

羌瘣も政も、過去が少しずつ無理なく明らかになっていく。たとえば羌瘣は、最初はまったく謎の戦士である。そうしないと、信の戦闘物語とごちゃごちゃになってしまうのだと思う。映画「バンテージ・ポイント」みたいに、同じシーンをスピーディーに何度も複数の視点で見せられればいいんだろうけど、漫画では、とくに週刊誌の連載では、くどいくなりし、だいたい進展が遅くなるんだと思う。たとえば、事前に羌瘣が戦から離脱 → 信の戦が一段落 → 羌瘣が復讐を果たす過程で、過去が明らかに、という順序になっている。

国同士の戦闘なので殺人シーンが多いのと、殺せとかいうセリフが多いので、うわぁ... って思ってしまうんだけど、まあ時代的にはしょうがない。アニメ化するときはきっと大変だったんだろう。



というわけで、先週の金、土、日は、抜歯の痛みに耐えながら、キングダム 1〜37巻を読むだけで終わった。ニート生活万歳。交際費として経費にできるかなぁ。