2006-03-19

Daniel L. Schacter / なぜ、「あれ」が思いだせなくなるのか



最近、物忘れがひどすぎるので、この本を買いました。



固有名詞には特別な意味はない。その名前で呼ばれる個人を象徴するが、その個人の性質を暗示することはない。[...] 名前がジョン・ベーカーだというとき、比較的よくあるアングロサクソン系の名前であるということの他には、彼個人についてほとんど、あるいはまったく何も伝えていないのだ。 (p.79)

よっぽどのことがない限り、私は、本名を知っている人を、あだ名やニックネームで呼びません。たとえば「ふるっち」や「ふるちん」などの呼び名があるからといって、誰かが私を識別することの役に立たないからです。ただし私の鼻が、他人の鼻より際立って赤い場合に「赤鼻の古川」とか「トオル・ザ・レッド」という呼称には意味があると思います。身体的特徴を口に出すことの倫理性は別として、認識のしやすさという点で、便利です。



記憶結合の失敗が原因で、実際に経験した出来事と、ただ考えたり想像しただけの出来事とが混乱することもある。たとえば、これから外出しようというときに、家のドアを閉めて鍵をかけなければと考える。その一時間後、車のなかで、あなたは突然パニックに襲われる。自分は本当にドアに鍵をかけてきたのか、それともただ想像しただけなのか?(p.117)

ちなみに私は、通勤途中に「ズボンをはいたかどうか」不安になることがあります。毎日、似たデザインのスーツを着ているので、ズボンをはいた記憶があいまいのなのです。あと、トイレでズボンを下ろしたときに、ファスナーを数秒前にあけたのか、元々あいていたのか分からなくなります。せっぱつまっているときは、特に。



つきまとう記憶を本当に和らげるためには、それらを認識し、直面し、対処しなければならないのだ (p.231)

トラウマというほどではないにしても、思い出すと逃げ出したくなる記憶が多々あります。どこかで向き合わねば。