2005-12-27

斎藤貴男 / 安心のファシズム - 支配されたがる人びと -



読み取れていない気がしてきたので、感想を書き直し。



ケータイを使って通話したりメールを交換するという行為は、[...] 国家規模のインフラストラクチュアを利用者個々人が丸ごと受け入れていることに他ならないのだ。[p.67]

それが、どうしたのかと。大規模なインフラに依存すると、インフラを失うことが脅威になるという警告でしょうか。楽観的な見方をすれば、そのインフラの上位層のプロトコルは解放されています。理論的には写メールの上位層で、e コマースすることだってできます。悲観的な見方をすると、上位層の利用が禁止されると、どうしようもなくなります。



[携帯電話を紛失することは]「記憶を失う恐怖にも似ている」と苦笑する人がいた。筆者はすかさず、「脳みそのアウトソーシングもほどほどに」と返した。人々はケータイに依存し、時には操られていると表現しても過言ではないのではないか。[p.72]

依存しているかも知れませんが、操られているというのは過言ではないでしょうか。電卓だって脳みそのアウトソーシングですし、電話や印刷もコミュニケーションのアウトソーシングです。自筆の手紙を書いて投函する場合でも、大規模なインフラを利用した、情報伝達のアウトソーシングです。だからって別に操られているとは言わないと思います。



と思いましたが、やはり携帯電話に関しては、操られている部分があるかも知れません。私は、かかってくると待ち構えているとき以外、携帯電話は音もバイブレーションも切ってあります。けど、こういう使い方をせずに、着信したら出なければと思う人もいるでしょう。



ところで似たような議論は、テレビが普及し始めたときにもあったのでしょうか。



金属という金属をトレイに載せて差し出してから探知機をくぐって、それでもいつも必ずチャイムが鳴る。靴を脱がされ、ベルトと眼鏡を外させられて初めて、探知機は沈黙してくれる。[p.181]

だって、金属だし。